瞑想とは?3
瞑想をして深い変性意識状態になることで、
「あなた」を”バラバラ”にすることができることがわかりました。
では、
「あなた」を”バラバラ”にするとなぜ、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み
が解消できるのでしょうか?
その理由は、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み
が、
「記憶」+”今ここに自分がいるという感覚”=「自我」
に、
恐怖=不快という”接着剤”で強力にくっついているからです。
実は、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩みは、
「記憶」+”今ここに自分がいるという感覚”=「自我」
の働きの中に組み込まれていて、単独では働けないようになっています。
逆に考えると、
「記憶」+”今ここに自分がいるという感覚”=「自我」
の仕組みを分解して止めないかぎり、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み
の回路も自動的に働き続けるということです。
つまり、
「記憶」+”今ここに自分がいるという感覚”=「自我」
をバラバラに分解してやることで、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み
もバラバラに分解することができ、
「悩み」 を構成している”部品”は、
実はどうでもいいようなただの”部品”であったと学習することができるのです。
そして、
「わかっちゃいるけどやめられない」が解消できるというわけです。
この原理は、プロゴルファーや楽器の演奏家などがかかる「イップス」とか「職業性ジストニア」を治す理論に似ています。
「イップス」「職業性ジストニア」とは?
さて、あなたは「イップス」と「職業性ジストニア」という言葉を知っていますか?
「イップス」というのは、スポーツの選手が悩まされる症状の一つで、プロゴルファーをを例にしてあげると、
たとえば、パターを打つ時に無意識のうちに手の筋肉が硬直して、思い通りのパフォーマンスが発揮できないという症状です。
「ジストニア」というのは、身体の一部が無意識に硬直してしまい、思い通りに動かせなくなってしまう運動障害のことです。
字を書くときに手が震えてしまう「書痙」もジストニアの一つです。
この二つは何が違うのかというと、
「イップス」はスポーツの世界でよく使われる言葉であるのが特徴で、
「ジストニア」は運動障害の総称というだけでこの二つは同じものだと考えて下さい。
「職業性ジストニア」は、楽器を演奏する音楽家や歌手、職人などの運動障害によく使われる言葉で「イップス」と同じものだと考えてください。
コブクロの小渕健太郎さんが休養を余儀なくされた、声を出そうとすると喉の筋肉が緊張しすぎて思ったように歌えなくなる”発声時頸部ジストニア”という症状が「職業性ジストニア」です。
「イップス」や「職業性ジストニア」の筋肉の硬直の原因は、意識と無意識の葛藤から生じてくる心的理由だと言われています。
じつは私は、ジストニアにかかったことがあります。
中学、高校と吹奏楽部に入ってトランペットを担当していたのですが、あるときから思うように音を出せなくなってしまいました。トランペットを吹こうとすると口周りの筋肉が震えたり、硬直してしまうのです。
特に、トランペットという楽器は高音を出すのが難しい楽器なので、高音を出すときは結構プレッシャーがかかります。今思えばそういうプレッシャーが原因だったのかなと思います。
その頃は、ジストニアにかかっているなどと思いもしなかったので、練習不足なんだと思い練習を繰り返しましたが、症状はひどくなるばかりでした。
しかし、一週間くらいトランペットを吹かないでいると症状が軽くなるのでした。
素人のわたしも悩まされた「ジストニア」なのですが、
「イップス」や「職業性ジストニア」の原因を脳科学の観点からみていくと、「イップス」や「職業性ジストニア」は脳の運動や感覚を担当する部分が発達しすぎて、限界を迎えている状態だと言われています。
たとえば、「職業性ジストニア」にかかったあるプロのピアニストの例を見てみましょう。
その症状は、ピアノを弾こうとすると指が思ったように動かなくなったり、けいれんするといった症状なのですが、ピアニストの脳を調べてみると手の指の感覚を担当する部分の体部局在性(ソマトトピー)が崩壊していたのです。
ちょっとわかりづらいので簡単に説明すると、親指、人差し指、中指、薬指、小指という風に脳の担当する部分が分かれていなければならないのに、それが崩壊してしまい、各指ごとの担当する部分がくっついてしまっているような状態です。
例えば、人差し指と中指の感覚を担当する脳の部分がくっついて、人差し指と中指の感覚の区別がつきにくくなっている状態です。
プロのピアニストですから、手の指の感覚や運動を担当する脳の部分が非常に発達していたはずなのにそれが崩壊してしまうなんて・・・。
なぜこのようなことが起こってしまうのか、まだよくわかっていないのですが、このピアニストの場合は治療法がありました。
それは非常に単純な方法なのですが、”数本の指を特殊な板に固定して、固定していない指を動かす訓練をする”というものです。これを「感覚リチューニング」といいます。
この練習をして、脳に指の感覚を再教育させることで、脳の指の感覚に対応する部分の各指の区分けを取り戻します。
それによって、このピアニストの「職業性ジストニア」が改善されたそうです。
今まで解説してきた、「イップス」や「職業性ジストニア」になる原因と、ピアニストの「職業性ジストニア」を治す方法「感覚リチューニング」は、
瞑想をして、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み
を解消できる理由によく似ています。
何が似ているかというと、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み は、
私たちの”脳が高度に発達しすぎたせいで起こる不具合”です。
「イップス」や「職業性ジストニア」も、脳の運動や感覚を担当する部分が発達しすぎて、限界を迎えておこる不具合です。
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み は、
「あなた」をバラバラにすることで、「悩み」もバラバラにすることができ、「悩み」を構成している”部品”は、実はどうでもいいようなただの”部品”であったと学習する。=これが”悩みの解消”です。
ピアニストの「職業性ジストニア」を治す方法「感覚リチューニング」も、指の感覚を一本一本学習し直して、脳の指の感覚に対応する部分の各指の区分けを取り戻します。
つまり、”悩み”というのは「イップス」、「職業性ジストニア」のようなものであるともいえます。
私たち人類は、脳が高度に発達しすぎたせいで、脳が限界を迎えていて、必然的に”悩み”という「イップス」が発生してしまうのではないでしょうか?
そのことを私たち人類は何となくわかっていて、自然発生的に”悩み”を解消するための技術が生まれた、
それが、「瞑想」なのではないでしょうか?
人間の脳は限界を迎えている?説
実は人間の脳は、物理的、機能的に進化の限界を迎えているという説があります。
例えば、脳は神経細胞の集まりなのですが、その神経細胞同士に軸索を通じて電気が走ったり、神経伝達物質の受け渡しで、
情報をやり取りをしているのが脳の情報処理の仕組みです。(イオン電荷を利用した仕組みです。)
電気で動いているという点では、コンピュータと同じです。
脳を大きくしたり、ニューロンを増やしたり、軸索(ニューロンとニューロンをつなげる電線)を太くしたり、逆に細くしたりして、
脳の機能を物理的に改善しようとしたとしても、情報処理速度が遅くなったり、ノイズが増えたりして、
結局、考えられるいかなることをしても脳の機能は向上しないという説があるそうです。
この説を信用するとすれば、例えば、脳に記憶を補助するチップを埋め込むなどのことをしない限り、
脳の機能は進化する余地がないということです。
そのくらいギリギリまで進化した”あなたの脳”ですが、
じつは高度に発達しすぎたせいで、容量を節約しないとスムーズな働きができなくなってしまうという欠点が生まれてしまいました。
脳の働きは感覚の情報がもとになっています。
生きるためのプログラムであるあなたは、常に敵を察知するシステム”五感”を働かせていますが、常に100パーセントで働いているわけではないのです。
たとえば、常に五感からの情報が100パーセント入ってきたらどうなってしまうでしょうか?
現実的には100パーセントとはいかないまでも、五感からの情報が、過剰に入ってきてしまう障害があります。
それが発達障害の人の脳です。
発達障害の人によくみられる症状に感覚過敏があります。たとえば、聴覚の感覚過敏を例にしますと、普通の人には20で聞こえる強さの音が、80の音の強さで聞こえたりするのです。
わかりやすい例を出して説明します。
聴覚の感覚過敏のある発達障害の人が、スーパーに行きます。商品が陳列されている冷蔵棚に近づくと、普通の人が気にならない、冷蔵棚から発する機械の「ゴォー」という音が非常に大きな音に聞こえてしまったり、カフェで目の前の人が話している音が周りの人の声が過剰に聞こえているせいでうまく聞き取れなくなってしまったりするのです。
つまり、普通の人には何でもないような音がとんでもなくうるさく聞こえたり、逆に聞かなければいけない音(人の声など)が適切な音量で聞こえないということが起こってしまうということです。
そのため、発達障害の人の脳は五感の情報量が過剰なため混乱しやすく、普通の人より疲れやすくなったり、人とコミュニケーションをとることが困難になってしまいます。
敵を察知するシステム”五感”が過剰に働くとこのような弊害が起こるのです。
じつは、このような発達障害を持つ人がじつに15人に1人もの割合でいるとある番組で紹介されていました。
たとえば、学校の30人のクラスの中に2人は発達障害の人がいるということです。
こんなに身近に発達障害の人がいるということは、私はある意味進化している人なのかなとも考えてしまいます。
※発達障害の症状には感覚過敏だけでなく、感覚に対して鈍感になってしまう逆の症状の人もいたり、感覚障害のない人もいますので誤解のないようにしてくださいね!
敵を察知するシステム”五感”が過剰に働くと、弊害が生まれてしまうことがわかりました。
つまり、(語弊があるかもしれないが・・・)普通の人は、五感から入ってくる情報量を無意識のうちに調節しているということです。
このことは、あなたが生きるために有利になるように感覚の情報を捻じ曲げているということです。
なぜなら、脳の容量を節約しないと、敵を察知するシステム”五感”が過剰に働く発達障害の人のような弊害が生まれてしまうからです。
このように、
脳の容量を節約することは、生き残るために非常に重要なことなのです。
感覚から入ってくる情報量を調節するという方法の他にも、脳の容量を節約する方法があります。
それが「思い込み」です。
じつはこの「思い込み」が”あなた”の作り出した世界そのものなのですが、間違った「思い込み」が強いと
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み
が、発生しやすくなってしまうという弊害があります。
つまり、生きるためのプログラムであるあなたは、高度に発達しすぎた脳を持っているが、容量をいっぱいに使っていると混乱してしまい、うまく働かなくなってしまうという欠点がある。
生き残るためには感覚情報をコントロールして脳の容量の節約が必要になった、さらに「思い込み」をすることで脳の容量の節約をして、スムーズに脳を働かせることで、生き残る可能性を高めた。
しかし、「思い込み」をすると、生き残る可能性は高まるが、「悩み」が発生してしまうという弊害が生まれるようになった。
その弊害に気付いた人類によって、古来から親しまれてきた技術が、
「瞑想」なのではないか?と私は考えています。
瞑想の起源
”瞑想が古来から親しまれてきた”といいましたが、
紀元前2500年-1800年(約3800〜4500年前)のインダス文明の人々は瞑想を行っていたと考えられます。
なぜなら、インダス文明の都市遺跡モヘンジョダロから瞑想のための座り方をした人の姿の印章(はんこ)が見つかっているからです。
つまり、人類はかなり昔から瞑想に親しんでいたということです。
この頃の瞑想の目的は定かではありませんが、インダス文明の後に生まれたインドの宗教であるバラモン教(仏教やヒンドゥー教の前身)では、
聖典が残っていて、瞑想が宗教的儀式の精神統一のために行われていたことは確かであるようです。
バラモン教の世の中から、釈迦が開祖の仏教が生まれ、瞑想が悟るための技術としてより体系化されていきました。
こうして、とくに仏教の中で発展してきた瞑想ですが、これには大きく分けて二つの瞑想法があります。
それは、サマタ瞑想(止瞑想)とヴィパッサナー瞑想(観瞑想)です。
サマタ瞑想とは?
※これから説明することは、厳密に言うと定義が違うと関係者から怒られるかもしれませんが、そういうことを分からない人にも、わかりやすく説明するためにわざとくだけた表現を用いています。
サマタ瞑想のサマタとは、”何か一つの対象に心を集中して、心を落ち着かせる”という意味で、私の解釈では、サマタ瞑想というのは深い変性意識状態になる瞑想のことです。いわゆる瞑想状態と言ったら、サマタ瞑想での瞑想状態だと思います。(無念無想の境地みたいなこと)
サマタ瞑想をして深い瞑想状態になった状態を「サマーディ」(三昧)と呼びます。仏教では「禅定」と呼ばれ、同じものととらえても問題はありません。
サマタ瞑想によって得られる「禅定」には、瞑想状態の深さによって名前が付けられ分類されています。
その段階には、4つの色界禅定と4つの無色界禅定と一番深い滅尽定があり、全部で9段階あります。
※ちなみに滅尽定は、瞑想と呼べるか禅定と呼べるかどうかもわからない究極の状態です。
色界禅定
色界というのは簡単に言うと物質の世界のことで、色界禅定というのは瞑想の時に集中する対象が”物質”です。
例えば、「紙に描かれた青い色の丸に集中する。」といった感じです。そうやって、一つの対象に感覚を集中しまくった結果、脳がそれ以外の仕事をしなくなり、無防備な状態になって深い変性意識状態になると考えられます。この時、
究極の
敵がいない=安心
状態であるので、生きるためのプログラムである「あなた」は、”幸せ”を感じるのだろうと考えられます。
第一禅 :瞑想して深い変性意識状態になることで、日常の欲と悪(怒りや後悔、疑う心)から”本当の意味で解放”される、その解放されたことを「やったー!」とあなたは思うので、喜びと幸福感が生まれる。
でもまだ思考が働いている。
第二禅 :思考が完全になくなる。思考がなくなって心が安定した喜びと幸福感が生まれる。
第三禅 :喜びが消えて平安になる。幸福感が強くなる。
第四禅 :幸福感も消える。すると”苦”がなくなり平安だけになる。※ここでいう”苦”は心の揺れ動きのようなものです。
まるでスーパーサイヤ人みたいですね。
このように、禅定のレベルが上がると、興奮がおさまっていくのが特徴です。
荒い快感 → 安定した快感
最初は「やったー!」みたいな感じなのが落ち着いて、「しあわせ・・・」みたいな恍惚感に変わり、最後にはそれさえなくなったもっと安定した状態に変わっていくのです。
じっさいに計測したわけではないのでわかりませんが、
恐らく、
ドーパミン → エンドルフィン → セロトニン
のように禅定が深くなると、分泌される脳内物質の種類も変化していくのはないでしょうか?
無色界禅定
無色界つまり→色がない=物質がない世界
ですので、集中する対象が何もありません。
ここからは言語化するのが非常に難しい”境地”の世界の話になってきますので、あえて私の独断と偏見で無理やり言語化してみます。
空無辺処(くうむへんしょ):色界禅定で対象にしていた”物”の周りの何もない空間に意識を移したとします。
その何もない空間と心が同化したとすると、心が何も触れることのない無限の空間のように感じられるような状態なのではないかと思います。
識無辺処(しきむへんしょ):「心が何も触れることのない無限の空間のように感じられるような状態」は、心が感じていることだから、それを感じている”心にフォーカス”してみました。だから心も何も遮るものがなくて、ほとんど揺れ動きもしない心だけを味わっています。
無所有処(むしょうしょ):心だけを味わっているということは、まだ心を意識している。なので、心を意識することもやめた状態。そしたら”何もない状態”になりました。
非想非非想処(ひそうひひそうしょ):”何もない状態”ということはまだ”何もない”ということを意識しようとしています。では、意識しようとする働き(想)自体を抑えてみました。でも”想”は微かにですが残っています。
この状態は、”想”がないとも言えるし、あるとも言える状態であると言われています。
非常に微妙な表現ですね。
例えるなら、あなたの皮膚には常在菌が住んでいますが、実は常在菌が皮膚を守っています。常在菌がいなかったらあなたの肌は吹き出物だらけになったり、免疫力が落ちたりします。なので、常在菌も「あなた」の一部といえます。この常在菌は身体を石鹸で洗うと、大量虐殺されてしまいます。しかし、わずかに生き残った常在菌がまたすぐ繁殖してあなたの肌を守ります。
"わずかに生き残った常在菌"を”わずかに残った想”に置き換えてみて下さい。
つまり、いくら”想”を抑えたとしても実際には”想”を完全に消すことは、生きるためのプログラムであるあなたにはできないのです。
この状態が無色界禅定の最高レベルです。
滅尽定(めつじんじょう):この状態は「想」が完全に消え、心の働きが完全に止まった状態といわれています。
生きるためのプログラムさえも超越した状態ではないのかな?ぐらいにしか私には言うことができません。
ということで、無色界禅定と滅尽定は凡人にはわからないレベルの話ですね。
しかし、
色界禅定なら、私の瞑想体験からも理解できる話です。
その特徴は瞑想状態が深まると、
荒い快感 → 安定した快感
に変化していき、
さらに、瞑想状態が深まると安定した快感さえも煩わしくなっていくというプロセスは、わたしも瞑想状態を体験したときに感じたことがあるからです。
※わたしが第〜禅定まで体験したとかは、正直わかりません。
以上がサマタ瞑想の私なりの解説でした。
色々と難しいことを言ってきましたが、
深い変性意識=無防備な状態
になると、欲や怒りや後悔、疑う心のような苦痛だけど敵を察知したり、逃げたり、戦ったり、するために必要な生き残るための心の働きから解放され、
究極の
敵がいない=快感、安心
の状態になり、
ものすごい快感や幸福感、心の安定した状態になるんですよ、ということが言いたいのです。
ヴィパッサナー瞑想とは?
※これから説明することは、厳密に言うと定義が違うと関係者から怒られるかもしれませんが、そういうことを分からない人にも、わかりやすく説明するためにわざとくだけた表現を用いています。
ヴィパッサナー瞑想のヴィパッサナーとは、「分けて観る」、「物事をあるがままに見る」という意味です。
お釈迦様が悟りを開いた瞑想と言われ、仏教独自の瞑想法です。
たとえば、サマタ瞑想をやって禅定に入っている間は、苦しみが消えて気持ちの良い状態でいられますが、
その状態から抜け出て日常の状態に戻ると、また元の苦しみのある状態に戻ってしまいます。(生きるためのプログラムが敵に備えている状態に戻る。)
そこでヴィパッサナー瞑想をして悟りを開くと、苦しみが消えて常に禅定に入っているような状態でいられる、つまり、これが悟った状態だと言われています。
もっと厳密にいうと、ヴィパッサナー瞑想をして真理を洞察することによって、根本的な苦しみの原因やカラクリを完全に理解し、もう苦しみが生まれなくなった状態が悟った状態です。
では、真理とは何なのでしょうか?
仏教では、最初に真理の正体を言葉にして説明しています。それは、
・全ては苦である。
・全ては無常である。
・全ては無我である。
これが、真理です。
「?」
ですよね?
わからないのも無理はありません。
これが本当の意味で分かった状態が悟りなのですから・・・。
つまり、
・全ては苦である。
・全ては無常である。
・全ては無我である。
を観察するのがヴィパッサナー瞑想の目的です。
近年、マインドフルネスというのも流行っていますが、簡単に理解するなら、同じようなものと考えてもいいと思います。
違いといえば、
ヴィパッサナー瞑想は、悟りを得るという目的があるのに対し、マインドフルネスは、ストレスの軽減、集中力の増強、記憶力の増強など、商業的な効果を狙っているものであるとも考えられます。
ではヴィパッサナー瞑想とはどんなことをやる瞑想なのかというと、有名で一番流行っている?方法なのが身体の動きを頭の中で言語化して確認し、実況中継する方法です。
たとえば、歩く瞑想を例にしますと、
「右足が(地面から)離れた。」
「右足が(地面に)着いた。」
「左足が(地面から)離れた。」
「左足が(地面に)着いた。」
のように身体の動きを頭の中で実況中継します。これを「ラべリング」と言います。
この今現在の身体の動きや状態を「ラべリング」することで、脳の仕事が「ラべリング」で精一杯になり、雑念が消え、正しい現実認識ができるように脳を教育していく方法です。
簡単な瞑想だなと思う方もいると思いますが、じつは非常に奥が深い瞑想であると思います。
凡人が、マインドフルネスのような目的(ストレスの軽減、集中力の増強、記憶力の増強など)、
でやるのであればこれ(ラべリング)で良いのですが、悟りを得るという本来の目的でヴィパッサナー瞑想をするのであれば、かなり集中してやる必要があります。
どのぐらい集中しなければいけないのかというと、サマタ瞑想の第一禅定以上の集中力が必要です。
そのぐらいの集中力があって初めて、
・全ては苦である。
・全ては無常である。
・全ては無我である。
という真理を観察できるらしいです。
このとき、ラべリングなどしている暇はないくらい精密な集中力が必要です。
実は仏教の修行法では、まずサマタ瞑想をして徹底的に集中力を鍛えます。
そしてその集中力を使ってヴィパッサナー瞑想をやるという方法がとられます。
ヴィパッサナー瞑想をやるだけでも集中力が鍛えられますので、ヴィパッサナー瞑想をいきなりやる修行法も存在するのですが、
どちらにせよ強力な集中力が必要であることには変わりがありません。
このようにめちゃくちゃ集中して何かを観察したとき、
動きがスローモーションで見えるような状態になると言われています。
わかりやすくいうと、スポーツ選手がゾーンに入った時に、動きがスローモーションで見えたとか言うあの状態で物事を観察するのがヴィパッサナー瞑想です。
いわゆるゾーンの状態の極限まで集中して物事を観察すると、目に入ってくる情報が超スローモーションで見えたり、例えば音楽を聴いていたとしても、音楽も超スローモーションになり、メロディーとして認識すらできなくなるような状態になると言われています。
ここからは私の推測になりますが、
そんな極限のゾーン状態で物事を観察したときに、真理の洞察が可能になるのではないでしょうか?
つまり、
・全ては苦である。
・全ては無常である。
・全ては無我である。
の正体が体感としてわかるのではないでしょうか?
なぜかというと、
極限のゾーンのような状態のとき、感覚を認識している働きも超スローモーションで感じられるのではないでしょうか?
その時、”感覚の限界”を身をもって体感するのではないでしょうか?
あなたには、「世界はこういうものだ!」という強い思い込みがあります。
「世界はこういうものだ!」という強い思い込みがあるおかげで、あなたは”自分がここに存在していること”を感じることができます。
それによって、あなたは高い運動能力を発揮することができ、敵に襲われても生き残る確率が高くなります。
逆に言えば、「世界はこういうものだ!」という思い込みを疑っていて、「もしかしたら自分はここに存在していないんじゃないかな?」などと考えていたら、
あなたは高い運動能力を発揮することができないので、敵から逃げたり戦ったりするには圧倒的に不利になり、生き残る可能性が格段に低くなるということです。
あなたは生きるためのプログラムです。
敵を察知するために感覚という働きがあります。
あなたは、感覚を通して世界を感じていますよね?
あなたが感じている世界というのは生きるためのプログラムである感覚という色眼鏡を通してみた世界です。
あなたが感じている世界は、あなたが生きるために有利になるようにしか感じることができないということです。
だから、絶対にあなたが感じている世界は本当の世界ではないということです。
つまり、世界がある、あなたがいるという感覚、つまり”認識”は、生きるためのプログラムが作り出した幻覚であると言えるわけです。
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
話を戻して、
「極限のゾーンのような状態のとき、感覚を認識している働きも超スローモーションで感じられる」
その時、「”感覚の限界”を身をもって体感する」
といいましたが、
このとき、
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
がじつは本当の世界と全く関係ないことが身をもってわかります。
なぜなら、認識している働きが超スローモーションで感じられたら、
世界→感覚→認識
のはたらきにタイムラグがあることがわかっちゃいますよね?
ということは、
あなたは絶対に世界の本当の正体を知ることはできないということですよね?
これが、
・全ては無我である。
ということなのです
言い換えると、
あなたがイチゴを見て、イチゴだと思ったとしても、それはあなたが思い込んでいるだけで、本当の正体は絶対にわからないということです。
なぜなら、生きるためのプログラムであるあなたは、
あなたが感じている世界は、あなたが生きるために有利になるようにしか感じることができないという限界があるからです。
作者 made by Was a bee. [CC BY-SA 2.5 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)],
ウィキメディア・コモンズ経由で
つまり、
イチゴの正体は絶対にわからない→それがあなたの限界→”全ては無我。”としか言うことができない。
※これはあなたが自分があると思っていることにも当てはまります。
ということです。
世界→感覚→認識
の働き
がスローモーションで感じられることで、「世界の本当の正体」は絶対にわからないという限界があるということがわかると、
本当の世界とあなたが思っている世界には絶対に隔たりがあることがわかります。
つまり、本当の世界とあなたが思っている世界が違うということは、世界が絶対に思い通りにならないということです。
つまり、
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
があることで、生きるためのプログラムであるあなたは、生き残る可能性は高くなるかもしれないが、世界が絶対に思った通りにならないので苦しみが発生してしまう。
これが、
・全ては苦である。
ということです。
よく言われる、絶対に誰でも死んでしまうからとか、病気になってしまうからとか、嫌いな人に絶対会ってしまう、という色々な苦しみの根源は、
生きるためのプログラムであるあなたは、感覚を通して世界を認識して敵を察知するというシステムがあるが、あなたが感じている世界は、あなたが生きるために有利になるようにしか感じることができないために、
本当の世界とあなたが思っている世界には絶対に隔たりが生まれてしまうので必然的に世界は思い通りにならなくなることが原因なのです。
つまり、
・全ては苦である。 ということです。
では、
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
をやめて、世界を感じることにしてみましょう。
あなたは極限のゾーン状態になることで、認識している働きが超スローモーションになっていますから、
世界→感覚→認識
のはたらきにタイムラグがあることをスローモーションで分かります。(このとき、”世界→感覚→認識がスローモーションになっていると認識しているじゃないか”というツッコミは置いといてください・・・。)
この時、さらに極限のゾーン状態を深めて、”認識”が起こる暇がなくなったとします。
すると、
世界→感覚
となり、世界を”感覚”だけでとらえている状態になります。
すると、世界から受け取る”感覚”は常に微妙に変化していることに気付き、一定の状態であることはないということに気づきます。(実際には感覚を感じているあなたも変化しています。)
つまり、
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
は常に裏切られ続けるということです。
これが、
・全ては無常。
であるということです。
つまり、
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
なんかに執着しても仕方ないんだよ、ということです。
・全ては苦である。
・全ては無常である。
・全ては無我である。
ということに、ヴィパッサナー瞑想をして究極のゾーン状態で物事を観察したときに、初めて体験として理解できるのです。
と、まあ偉そうに語ってきましたがわたしも”究極のゾーン状態”になったことがあると明確に言えません。あくまで推測にすぎないということを言うしかありません。
また、”究極のゾーン状態”に入らなくても良いのかもしれません。
私は、ふつうにサラリーマンをして生活している人が、良い指導者もなく、”ヴィパッサナー瞑想をして究極のゾーン状態で物事を観察して真理を悟ろう”などと考えるのは結構危険があると思います。
いわゆる普通の仕事というのはある意味、
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
が働くことでうまくいくものだからです。
会社で一緒に働いている人は、”ヴィパッサナー瞑想をして究極のゾーン状態で物事を観察して真理を悟ろう”などと、考えて仕事をしていません。
「世界はこういうものだ!」という思い込み=認識
をすることで、思考を自動化して偏見だらけでなければ仕事などうまくいくはずがありません。
そういう仕組みがあると私は思います。
そこに瞑想の危険があるのではないでしょうか?
「ラべリング」の問題点
ヴィパッサナー瞑想の有名な方法である身体の動きや状態を頭の中で言語化して確認し、実況中継する「ラべリング」という方法がありますが、私は「ラべリング」には問題があると思います。
「ラべリング」とは、
”今現在の身体の動きや状態を「ラべリング」することで、脳の仕事が「ラべリング」で精一杯になり、雑念が消え、正しい現実認識ができるように脳を教育していく方法”
と説明しましたが、「ラべリング」を頭の中で言語化して行うことでその言語化によって思考が生まれてしまい、正しい現実認識ができなくなってしまう危険があります。
たとえば、歩く瞑想をしていて、「怒り」の感情が生まれたとします。その時頭の中で”怒り”と言語化してラべリングしたときに、”怒り”に関連する記憶が呼びさまされて、かえってトラウマが強化されてしまう恐れがあるからです。
これは、私の経験からも思います。
「ラべリング」は重いです。
言葉で「ラべリング」をすると”自分”を強く感じます。
「こう感じなければ!」みたいな思考が強く働く可能性があります。
ありのままに現実を「ラべリング」していると思っていても、「こう感じなければ!」が邪魔をする時があります。
しかし、この方法で高い効果があったという人もいるようなので否定はしませんが、そういう弊害があると思います。
”「ラべリング」しない方法もあるの?”
あります!しかも、凡人にも安心してできる効果の高い方法が・・・。
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瞑想中の脳
瞑想熟達者の脳を調べてみると、脳の頭頂葉の活性が下がっていて前頭葉の機能がオフライン状態になっているという研究報告があります。
脳の頭頂葉の働きは、
視覚、聴覚、触覚、の情報を組み合わせることによって、”今ここに自分がいるという感覚”を生みだすことです。
つまり、頭頂葉の活性が下がっているということは、”今ここに自分がいるという感覚”が弱まっているということです。
興味深いのは、右頭頂葉にある”角回”(外的な自分と内的な自分を区別している場所)に電極を当て、働きを麻痺させると、体外離脱体験を引き起こされることが実験によってわかっています。
瞑想体験者が、身体の感覚がなくなったとか、宇宙と一体になったとか、自分が非局在化した(まんべんなく広く存在するようになること)とか、瞑想状態の感覚を表現することがありますが、頭頂葉の活性が下がった結果、引き起こされている体験であると考えられます。
さらに、前頭葉の機能がオフライン状態になるということは、前頭葉の高度な機能である、論理的思考、計画、感情および自意識の機能が働かなくなっている状態です。
また、前頭葉は感情や欲の源である原始的な脳、”辺縁系”と強く結びついており、
「記憶」+”今ここに自分がいるという感覚”=「自我」
を、恐怖=不快という”接着剤”で強く結びつけるという働きがあります。
つまり、瞑想をして前頭葉をオフラインにした結果、
「記憶」+”今ここに自分がいるという感覚”=「自我」
をくっつけている”接着剤”が弱まり、
自分が非局在化する。=自分がバラバラになる。
(難しい言い方ですが、瞑想体験するとわかる感覚)
という体験が起こるのだと考えられます。
つまり、自分がバラバラになるということは、生きるためのプログラムであるあなたが、
武器を捨てた無防備な状態=深い変性意識状態
であるということです。
このとき、生きるためのプログラムであるあなたが常に感じていた、
敵が近づく=恐怖=不快=ストレス
から本当の意味で解放されていますので、普通の状態では感じることができないような、深い喜びや安らぎを感じることができるというわけです。
ここまでが、今まで説明してきたサマタ瞑想の
瞑想状態であると考えられます。
そのとき、
「記憶」+”今ここに自分がいるという感覚”=「自我」
に組み込まれていた、
「わかっちゃいるけどやめられない」=悩み
も分解されてバラバラに感じられたとき、
「悩み」を構成している”部品”は、
実はどうでもいいようなただの”感覚”であったと気づきます。
実はこれがヴィパッサナー瞑想の原理だと私は考えています。
ヴィパッサナー瞑想の前にサマタ瞑想をして、深い変性意識になることで、感覚をバラバラにします。そうすると”悩み”もバラバラになります。
この時、無防備な赤ちゃんのような状態の脳であると考えられます。
ここからがヴィパッサナー瞑想です。
ヴィパッサナー瞑想は、サマタ瞑想よりも前頭葉を働かせて、全体的にバラバラになった感覚を観察することで、悩みのカラクリを学習します。
悩みのカラクリが本当の意味で分かるので、悩みが発生しなくなるということです。
言い換えるなら、しがらみから解放された、先入観のない赤ちゃんのような感じ方で世界を再学習し直すといったところでしょうか?
変性意識状態、瞑想状態に入る方法に特化した”技術”があります。
今までサマタ瞑想とかヴィパッサナー瞑想とか、瞑想法を分けて説明してきましたが、じつは、深い変性意識になってその状態を感じるだけで、結構、悩みのカラクリがわかったりします。
私の推測ですが、深い変性意識状態になっているときに、脳のニューロンの最適化が行われていて、不快な記憶、感情に関連するニューロンのつながりが見直され、再編成されるのでは?と考えています。
瞑想をして深い変性意識になると、イップスを治すような働きが自動的に起こるのではないかと・・・。
いかがでしたでしょうか?
私という凡人なりに、凡人でも理解できるように瞑想とは何かについて私の体験を踏まえて説明してきました。
「じゃあどうやって瞑想状態になるの?」
そうです。肝心なのはそこです!
変性意識状態、瞑想状態といってもやはり体験したことがない人にとっては”?”です。
じつは、
変性意識状態になる方法は、ほかのサイトや書籍でもたくさん紹介されていますが実際体験したことがない人には得体のしれないあやふやなイメージのものなのではないでしょうか?
じつは、変性意識状態、瞑想状態に入る方法に特化した”技術”があります。
それは、”自分をバラバラにする技術”です。